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足利義満と幕府権力の確立

意外と知らない真実。
このようなことが起こっていたようです。

足利義満・義持時代と幕府権力の確立
2代将軍足利義詮が死去すると、管領細川頼之は3代将軍足利義満を補佐して執政をはじめ、楠木正儀を寝返らせるなど対南朝工作や九州の南朝勢力排除のための今川貞世派遣、内政においては新興の禅宗である南禅寺と旧仏教勢力の比叡山との対立問題の対応や半済の実施などを行う。1379年には斯波氏のクーデターで細川頼之が失脚させられる康暦の政変と呼ばれる政変が起き、後任には斯波義将が就任する。義満は奉公衆と呼ばれる軍事力を整え、有力守護大名の山名氏や大内氏を挑発してそれぞれ明徳の乱、応永の乱で追討し、将軍権力を固めて、南北朝合一を行い天皇に迫る権力を確立する。

足利義満が急死すると、4代将軍の足利義持は斯波義将に補佐され、義満に対する太上天皇の追号を辞退し、勘合貿易での明との通商を一時停止するなど義満の政策を否定し幕政を守旧的なものに改める。これは貴族色が強まった義満晩年の政策に反感を抱く武士達の不満に応えたものであった。1423年に実子の足利義量に将軍職を譲るが義量が早世し、さらに義持自身も後継者を決めないまま死去する。6代将軍は籤引きで選ばれる事とされ、義満の子で僧門に入っていた義円が還俗して将軍足利義教が将軍となる。


足利義教時代から応仁の乱まで
足利義満が南北朝合一を達成し幕府権力を絶大にしたものの、義満急死後は大名合議制に戻り相対的に将軍の権力も低下した。更に民衆による土一揆の発生や後南朝による南朝再興運動など、幕府にとってはかつてない事態に遭遇するようになった。そのような中で諸大名にとっても領国統治の必要上、将軍のこれ以上の権威の低下は避けたいとの思惑もあった。比叡山座主であった足利義教がくじ引きで将軍になると、土岐氏・赤松氏・大内氏らの有力守護大名の後継争いに積極的に干渉し将軍権力の強化に努めた。更に幕府に反抗的だった鎌倉公方足利持氏を永享の乱で、その残党を結城合戦で討伐すると全国に足利将軍に表向きに刃向かう勢力は無くなり、一見社会は安定に向かうかに見えた。だが、余りにも強硬な政治姿勢が人々に「恐怖政治」との反発を抱かせ、やがて赤松満祐により義教が暗殺された(嘉吉の乱)をきっかけに将軍の力は衰えた。

その後は幼少の将軍が続いたため有力大名による合議で国が運営された。8代将軍・足利義政は芸術や建築に関しては優れた才覚の持ち主であったものの、政治的関心には乏しく、自然と政治は将軍の正室・日野富子や将軍側近、有力大名らによる権力抗争の場と化し、関東で鎌倉公方の復活を巡って生じた享徳の乱が発生しても、十分な対策を打とうとはしなかった。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2008年03月04日 20:00に投稿されたエントリーのページです。

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